松果体の活性化
昨日の続きから。
『わかる』ということは、どういうことなのか。
何かが『わかった』時、頭の中では何が起こっているのか。
例えば、美術館に行って絵を眺める。
『わかる』絵もあればよくわからない絵もある。
この『わかる』とは何を描いているかがわかるかどうかということじゃなく、自分の心の琴線(きんせん)に触れるかどうか。
心の琴線に触れる、というのは心にある琴(こと)の糸が震え、共鳴するということです。
前回書いたように、すべてのものを形作っている最小単位のものはすべて振動しています。
そして、共鳴するということは、振動数が同じということ。
目の前の絵に感動している時、その絵を形作っているものの波長と私の細胞の波長は同じになっているのですね。
そこには、言葉を介する必要のない、言語化することのできない、『絵』と対峙している人とのコミュニケーションがあります。
その時、私たちは
「この絵はなんとなく『わかる』」
と言います。
絵を描いた人がどんな人か全然知らなくても、何が描かれているのかわからなくても『わかる』。
作品について詳しい解説を読んでも『わからない』。
その『わからない』絵について、解説を読んで、ああそうなんだと理解することはできる。
理解した上で、良い作品だな、なんて思うこともあります。
けれど、それは頭での理解であって、決して共鳴ではない。
つまり、言語化をすると、共鳴・共振・振動…という微細なエネルギーで粒々が互いに影響しあっている領域じゃないところに行くのです。
じゃあどこに行くのか、というと、すごく雑な表現になりますが、違う次元です。
(ここから脳の話になりますが、詳しくないので間違っていたらすみません。自分自身の体感を元に書いてます)
脳の真ん中辺りに直感を働かせるという松果体という部分があります。
言語化して頭の中の脳のどこかの領域を通して理解するという『わかる』には、松果体は使われません。
一瞬で『わかる』時に松果体は使われます。
松果体は振動をキャッチする。
動物は言語化しないので、この松果体の振動でコミュニケーションしているのでしょう。
人間も言葉をしゃべる前、赤ちゃんの頃はそうだと思います。
それが言語化するにつれて、脳の言語を扱う領域でのコミュニケーションになる。
言葉と言葉のやりとりは、情報と情報のやりとりです。
目や耳等の感覚器というデバイスを使い情報をインプットし、脳を通して理解し、その場で最適な情報を最適な表現(表情や言葉の抑揚や身振り手振り)でアウトプットする。
常に脳を使って情報の最適解をやりとりするのだから、そういう上っ面だけ(というと表現が悪いですが)の 表面的なコミュニケーションは疲れます。
一般的に、AIがしているのは、こうした表面的レベルのコミュニケーションです。
(中には、見えたり聞こえたりという実感がないのに、脳の無意識領域に音や色の振動や波長を使って働きかけるものもあるようですが)
大半の動物は集団で行動するように、人も又つながりを求めます。
つながりがあることで生存率があがる、という本能に根差した安心感を求めているのでしょう。
だとしたら、そのつながりは、表面的なものではなく、動物と同じように言葉ではないコミュニケーションでなければなりません。
言葉がなくても振動で伝わる、共鳴共振のつながりです。
松果体が振動しないコミュニケーションでは、人は根っこの部分からの安心感は得られないのです。
言葉を介さない『わかる』は、日本人が得意とするものです。
あえて言葉にしなくてもわかる。
日本人は元々、共鳴・共振を使ったコミュニケーションを当たり前にしていたから、言葉を発しない植物にも命を見る。
物にも共振するから、雑に扱うことをしない。
松果体はフッ素によって働きが悪くなるそうです。
歯医者さんで塗ってくれたりするフッ素です。
最近は水道水にも入っているそうです。
だから、共振共鳴する真のコミュニケーションや、直感という宇宙からの振動を受け取るのに大切な『松果体』を守ろうとするなら、フッ素などの松果体の働きを妨げるものを避けることも必要ですが
同時に、日常で『松果体』を働かせておく、というのが良いんじゃないかなと思います。
人と接する時は『松果体』のコミュニケーションをする。
何かを見たり聞いたりしてもあえて言語化しない。体を感じてみる。
理解しようとしない。
これからの時代は、縄文回帰がキーワードだそうです。
縄文時代でのコミュニケーションは、共振共鳴が基本だったでしょう。
それは人対人だけではなく、木や花や水、宇宙との共振共鳴。
コミュニケーションについて、一般的に『女性は共感を求める』、と言われていますがそれは理解ではなくて、共鳴。
命を生み育む性だからこそ、どんなに世の中が変わろうとも、命に根差したものは揺るがず、共鳴を求め、共振する。
拒絶を恐れるから、男性は自分からは求められず命令になってしまう。
拒絶を恐れないから、拒絶も否定も自分の価値とは何の関係もないことを知っているから、女性は求め、甘えられる。
甘えるのは、弱いからではなく、恐れないから。
だから、男性は女性を求める。
本来、女性は何もかも受け入れてゼロに浄化し、清めた清浄で明るい氣(エネルギー)を広げていく太陽のような存在。
こんな混沌とした今だからこそ、私たち女性ができることがあるような気がします。
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